YGS21

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2017年1月28日土曜日

告知を受けて


 
私の場合は、妊娠中はまったく何も言われず、順調に育っているといわれていました。

出生前検査のことも「念のため受けておかれますか?」の一言もありませんでした。

普通に産前1ヶ月半前まで仕事をして産前休暇をあさってから取れる!ようやくゆっくり出来るー。友達にも会えるー。入院セットとかベビー用品チェックしようっと!と思っていた夜中に破水。切迫早産でした。



救急車で運ばれ、すぐに入院。そのまま寝たきり生活へ突入。少しでもおなかに赤ちゃんがいた方がまだお母さんのおなかの中で成長しないといけない部分があるから絶対安静にして少しでもおなかの中にいさせてあげてと言われて、1週間以上入院。

でも破水をしているので少しずつ羊水が流れ出ていて、もう陣痛もきてしまってどうにもならなくなって自然分娩で出産。2190gという小さい赤ちゃんが予定日よりも1ヶ月早く生まれてきました。小さく生まれたこと自体をとても心配していましたが、世の中に切迫早産で小さく生まれてきても大きく育っている子はたくさんいると聞いて、大丈夫だよと言い聞かせていました。

ですが、数時間で先生から呼吸が・・・と言われ、念のため大きい病院へ赤ちゃんだけ運ぶと言われました。命は大丈夫なの!?と思ってそのときはまさかダウン症だとはまったく想像もしていませんでした。そして産院の先生もその可能性があることは一言もおっしゃいませんでした。

ドクターヘリで赤ちゃんは運ばれ、A病院へ。夫がA病院へ向かい、状況を聞いたところ、そこで初めてダウン症の可能性があると言われたそうです。

そして心臓に何らかの疾患がある可能性が高いと。A病院では手に負えないのでB病院へ移ってくださいと言われました。

この時点は主人がどんな想いだったか分かりませんが、私にすぐに伝えてくれました。

まさに青天の霹靂。なんのことかさっぱり分かりませんでした。

「そんな馬鹿な。親戚にもそんな子は誰もいないし、聞いたこともないし、私たちにそういう子が生まれるなんてありえない。なにかの間違いで先生の勘違いでは?」と思ったのでした。「でももしそうだったらどうしよう」という不安もありました。

 

そして翌日には救急車でB病院へ運ばれました。B病院で検査したところ、心臓に3つ穴が開いている。1つは誰も開いている穴なので自然とふさがる可能性があるが、2つについては今のところはなんともいえず、手術が必要になるかもしれないとのことでした。

これが心房中隔欠損と心室中隔欠損でした。また、B病院でもダウン症の可能性があるので検査されますか?と言われました。主人ははいと言って帰ってきたそうです。

「そんなに見る人が見れば分かるんだ・・・」とショックも受けました。

 

この時点では実家にも義実家にも何もいえませんでした。それを想像するだけでとても怖かったです。

 

私は産院で毎日夜になると泣いていました。スマホで調べれば調べるほど、もしもそうだったらどうしよう、これからどうしたらいいんだろうと泣いていました。

1人目、2人目の出産のときは食堂で他の出産直後のママたちと一緒にご飯を食べていたのに、そんな気持ちにもなれず、ずっと部屋で1人ご飯を食べていました。

周囲のママ友がお見舞いに来る声を聞いて泣き、おめでとうという声を聞いて泣き、わが子がここにいないことに泣き、途方にくれていました。

看護士さんが日に日に私の元気がなくなっていると心配されていたほどです。

私は赤ちゃんがいないまま1人で退院することになりました。

 

一方、B病院で内科的な治療を受けていましたが、10日ほど経過しても効果が得られず、このままではダメだということで心臓の手術の出来るC病院へ移ってくださいと言われました。

「え?この小さい赤ちゃんなのに手術が出来るの?それは大丈夫なの?」と思いました。

C病院へ移りましたが、さすがにまだ小さいため生後2ヶ月を待つ必要がありました。

怒涛のごとく過ぎていった生後2ヶ月間でしたが、私は赤ちゃんが一緒にいないからか現実味もあまりなく、本来かわいいと思えるはずの赤ちゃんは県外にいて現実逃避のようになっていました。この間もダウン症の子を持つ親御さんのブログなどを見ては泣いてばかりの日々でした。

そして、産後であること、県外であることを理由に毎日病院へ通うことも出来ずにいました。

おそらく通おうと思えば通えた距離でした。

でも、あの頃の私はかわいいと思えず、また現実から逃げたかったのだと思います。

「私の人生はもう終わった。これからはこの子を背負って一生生きていかないといけないんだ。。。仕事ももう退職するしかない・・・。」

「なぜよりによって私のところへ・・・?神様、私はそんなに悪いことをしてきましたか?」などと自分の運命を呪っていました・・・。

そしてわが子を心配しながらも、真っ黒な自分がいました。

「この子は手術をして助かってその後生きていくことが果たして幸せなんだろうかと」

必死に生きようと毎日頑張っている小さな赤ん坊を病院に1人でおいておいて、いったい私はなんて愛情のない母親なんだろう、なんて情けない母親なんだろうとまた泣いていました。

それでも黒い気持ちと頑張らないといけないという気持ちとが色々入り混じった日々をすごしとうとう手術当日となりました。

夫婦で急変に備えて病院に泊まり、私はそこでもまだ助かって欲しい気持ちと黒い気持ちとで揺れ動いていました。

そんな情けない私を知ってか知らずか、わが子は無事に手術を終えたのです。

人工呼吸器やらなんやかんやの管が10個以上ついていてそれはもう痛々しいの一言でした。

手術前に先生が「もともとダウン症のお子さんは流産してしまったりして亡くなってしまうことが多いのですよ。でもこの子は生まれてきたかったんでしょうねー。お母さんのおなかの居心地もよかったんだと思いますよ。」と言っておられました。

苦労して生きていかないといけないのに、なぜ生まれてきたかったんだ?とも思いました。

そして手術も成功し、そのときに私は「あーこの子はこんな大手術をしても生きたいんだな。そしたら私ももう覚悟を決めるしかないな」となぜか思えたのです。

その後も、あんなにたくさん管がついていたら当分NICUだなと思っていたら2日ほどで普通の病棟へ移動。「え?大丈夫なの!?」と驚いたくらいです。

C病院で数日様子を見て、順調に回復していますので滋賀県内のB病院へ戻ってもらっていいですよ。と言われ「え?もう戻っていいの?」とここでも驚きました。

B病院へ戻った後も、鼻チューブからミルクを飲んでいたので哺乳瓶から母乳やミルクをのめるようにならないといけないですし、血中酸素濃度も上がらないと酸素ボンベを手放せないですし、1ヶ月から1ヶ月半くらいは付き添い入院を覚悟しておいてください。と先生に言われました。長い入院生活だなあと落ち込んでいたのですが、わが子は先生も驚くほどの回復力を見せ、1週間ほどで哺乳瓶からミルクを飲み、昼間は酸素ボンベがなくても自分で呼吸が出来るまでに回復。無事3週間ほどで退院となったのでした。

私はそのときも「そんなに生きたいんだ!ホント、すごいな。それなら仕方ない。ママも頑張るよ」と思ったのでした。

それからは毎日泣くということはなくなりました。

情けない話、親である私が子を助けるのではなく、子どもに私が助けられたわけです。

それでももちろん、不安に思う日や悲しくなる日がないわけではないです。

でも日々笑顔を振りまき、少しずつ出来ることが増え、返事をしたり、手遊び歌を歌ったり、椅子に座ったり、階段を登ったり、歩いたり、ゆっくりですが少しずつ成長していく姿を見ているとかわいい!の方が勝ってくるのです。

現在2歳ですが、主人とお兄ちゃん二人に愛されて日々笑顔に包まれています。

 



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